【作品評】深い青の底で、命は静かに瞬いている。(特別寄稿:映画ソムリエ 東紗友美)
【深い青の底で、命は静かに瞬いている】 中川龍太郎のカメラが捉えるのは、常に「不在」の気配だ。かつてそこにあったはずの温もりや、二度と引き返せない過去。 彼の作品群は一貫して、何かを失い、心に空洞を抱えた人間が再び歩き出すまでの微かなグラデーションを見つめてきた。喪失を無理に乗り越えさせようとはせず、光の揺らぎや雨の匂い、ただ流れる沈黙といった「風景」にその輪郭を託していく。 だからこそ、私たちはスクリーンの中の物語を追ううちに、いつしか自分自身の胸の奥底に眠る記憶と対話し始めていることに気づくのだ。誰かに諭されるのではなく、自分の中で答えを探したくなる静かな時間をくれる。 新作の短編映画『世界は美しいと誰かは言った』もまた、そんな監督の眼差しに貫かれた一冊の詩集のような作品である。 重い病を抱える史花(久保史緒里)と2歳の娘・律。そして、幼い娘を亡くした経験を持つ民宿の主人・光世(中尾幸世)。風がそよぐ湖のほとりで、痛みと喪失を抱えた女性たちの人生が、一晩だけ交差する。 静謐な風景を見つめているうち、私は現在7歳になる自分の娘が、2歳半だった頃の記憶を強烈に呼び起こされていた。 伸びかけたふわふわの髪、シャボン玉を追いかける姿、まだ遠くへは投げられないボール、ぷにぷにのほっぺた。私と娘にも、確かにあんな時間があった。 子どもはあっという間に大きくなるため、日々のなかでつい忘れてしまう。けれど、階段を登るスピードや走る速度に合わせて軽快になっていく劇中のピアノの音が、胸の奥をそっと撫でた。映画を観ているはずが、私自身の記憶が音楽を奏でているような不思議な感覚。あの頃の娘の体温を、私ははっきりと細胞レベルで思い出したのだ。 劇中の「思い出せないけど、残っているもの」という言葉。これこそが本作の核であり、中川監督が語る「無意識の蓄積」だろう。 共に過ごした時間は、鮮明な出来事としてではなく、感覚として身体に刻まれる。交わした言葉は忘れても、笑い方や声の温度、隣にいたときの安心感は消えずに残り続ける。 ふとした匂いや景色に胸が締めつけられる感情の揺れこそが、失われたものが今も自分の中に生きている証なのだ。「思い出せないこと」は「完全に失ったこと」ではない。光世を通してそれに気づけることは、私たちにとっての静かな救いである。 その希望の形を、中川監督は視覚的な「青」を通して提示している。 史花は寡黙で、感情を大きく表に出すことはない。しかし、彼女が毎日日記に綴る言葉には、ラメの入った深い青色のボールペンが使われている。夜の湖、水中、彼女がまとうワンピース。作品を包み込む幾重もの「深い青」は、彼女が抱える言葉にならない感情や、無意識の底知れなさを象徴しているように思った。 その暗い青の底で、ペン先の輝きだけが、沈黙のなかにも抱き続ける希望を示しているようだ。心の奥底で揺らぎ続ける「生きたい」という切実な祈りのように。 この声なき祈りに圧倒的な説得力を持たせているのが、史花に命を吹き込んだ久保史緒里の芝居である。ドラマ『どうする家康』で見せた孤独を滲ませる佇まいや、映画『誰よりもつよく抱きしめて』で見せた気持ちを抑えながらも内側では確かに揺れ続ける人物像にも通じるように、彼女の演技は、感情が生まれるその瞬間を驚くほど丁寧にすくい上げる。 大声を上げたり、感情を分かりやすく爆発させることはしない。迷いが決意へ変わる瞬間、言葉を飲み込むわずかな間、涙になる前の揺らぎ。 その静かながらも深い表現があるからこそ、観る者は史花の心が動く速度を、自分の心で追体験できるのだ。 「命をあきらめない」と声高に叫ぶのは簡単だ。しかし本作は、久保の繊細な息遣いを通して 「私は、生きることを諦めずにいたい。」と奥ゆかしく命への欲望を肯定することで深い余韻を残す。 終盤、彼女の娘・律のぼんやりとした視点に、母親が画面へと移り込む一瞬がある。その何気ないカットが、あまりにも愛おしく、美しかった。子どもは、明日も母がそこにいることを疑わない。その無垢な信頼が映し出された瞬間、誰かの「生きていてほしい」は、こんなにも静かで切実な願いなのだと胸を締めつけられた。 『世界は美しいと誰かが言った』 そのタイトルが示す通り、私たちが探す世界の美しさは、決して遠くの壮大な景色の中だけにあるのではない。子どもの柔らかいほっぺた、風の匂い、隣にいる人の声の温度。美しさは、すぐ手の届く身近な日常のなかに、そして私たち自身の身体の記憶のなかに、すでに溢れている。 忘れてしまったとき、そっと取り出して開きたくなる。私たちの身体に眠る世界の美しさを、もう一度呼び覚ましてくれる映画である。 (特別寄稿:映画ソムリエ 東紗友美)
🎫舞台挨拶付きの劇場上映チケット販売中
https://linktr.ee/taxiater🚕日本初のタクシー映画祭「TAXIATER」 8月3日(月)より1週間、東京23区内のタクシー100台で撮り下ろしの短編映画3作品を先行上映💨 その後、8月15日(土)より期間限定の劇場上映(一部、舞台挨拶・特別対談付き)を開催予定! #TAXIATER
(撮影:髙木美佑)